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ごあいさつ>恒さんです


私はいつでも「恒さん」です。

   昭和16年2月、私は横浜市港北区の師岡(もろおか)町で生まれた。当時この町は約50戸の農家が田畑を耕やしていた農村。そのうち鈴木という性の家が20戸以上あり、近隣の町にも「鈴木家」がいっぱいあった。
 小学校(大綱小)1、2年生の頃の私は、とにかく自意識の強い子供で、先生にさされて国語の教科書を読んでいても、途中でみんなの目がこわくて泣き出してしまう。一種の精神的未熟児であった。心配した山野井という女の先生が、しょっちゅう家庭訪問に来て、両親とこの問題児の育て方を話し合っていたらしい。母はいまだに当時のことを何も言わないが…。
 それでも小学校の4年ぐらいになると、他の子供なみに成長し、ターザンごっこなどで兄貴のお古の服や靴を真っ黒にして学校から帰る悪ガキになった。
 担任は榎本清一という人で、アダ名が、『エノケン』。これが面白い人で、ある日、朝の出席をとり始め、途中で「鈴木」のところまで来るや、突如としで「鈴木の○○」「鈴木の○○」と名首を読み上げ、私のところでは「鈴木の恒さん」とやったのである。なにしろこのクラスには「鈴木」が七人もいて、エノケンは面倒くさくなったのである。
 以後、私はいつも『恒さん』。中学(大綱中)高校(横浜翠嵐高)に進んでも、必ずクラスに鈴木が何人かいたし、一種のアダ名のようなものだった。大学(早稲田大学)に行けば、このアダ名も消えるだろうと期侍したが、ダメ。なんとなく『恒さん』がつきまとい、ついに新聞記者(毎日新聞)15年はもちろん、いまだに私のボスの河野洋平氏までが『恒さん』。もう一生、『恒さん』のままのようなのだ。
 ある日、女房に聞いてみた。「うまくいって代議士になったら、みんな『恒さん』とは呼ばないよね」。すると女房がいいました。「まずダメね。もう顔つきそのものが『恒さん』って感じヨ」。
 私の一生は女房のいう『顔つき』も含め、思えば幼き子供のころ、あのモノぐさエノケンによって決められてしまったのだ。あんまりシャクだから、自分の墓を立てる時は戒名のわきに『恒さん』の墓」とでも書け――という心境である。



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