「子供らに命見つめる機会を」 03/08/03UP


平成15年8月3日神奈川新聞

子供らに命見つめる機会を
環境教育法成立に寄せて
衆議院議員 鈴木恒夫

 「仮に千里の道の第一歩であっても、長崎の中学生による幼児殺人事件のようなことが、この法律の成立によって少しでも滅ればとの思いを込めて−−」。
 7月17日午後の参議院環境委員会。いれゆる「環境教育法」の制定に向けて、議員立法による法案づくりの実務に当たってきた私は、委員の質問にそう答え、可決を見届けて、自分の議員会館の部屋に戻った。すると、待ち構えていた記者が言った。
 「さっき、稲城の4少女が手錠をかけられて見つかりましたよ。そばに犯人の死体も」。私の頭は混乱した。いったいこの日本社会はどうなっているんだ。すべては手遅れなのか、と。
 実は私はこの数年間、ドイツのような環境先進国にすら存在しない「環境教育法」の制定をずっと考え続けてきた。地球環境の破壊がこれほどまでに進んでしまうと、環境教育と一語で言っても、対象は気の遠くなるほど広範囲かつ深い。
 環境問題の深刻化に対する危機意識が、国民の間に高まってきたのを背景に、様々な環境教育の実践はここ数年、際立って広まってきている。学校教育においては、昨年から完全実施された学校週五日制や総合学習の時間の活用などによって、 生徒・児童への環境教育は一種のブームに近い。
 しかし、この程度の環境教育では、破壊の進行に歯止めがかかるはずはない。とりわけ深刻なのは、心身の発達段階にある子供に与える影響だ。たとえば、長崎の事件。犯人の中学生に何がそうさせたかは分析が進むだろう。子供が世に生をうけて初めて対面する教師は母親であり、家庭教育のあり方が議論になるだろう。学校や地域での教育に問題はないのか、有害情報の恐るべき氾濫(はんらん)、大人社会の倫埋・道徳の乱れ、IT機器の広がりと子供の生活実態の変化、はては食生活の様変わりや化学物質が子供の心身に影響していないかまで、犯行の『複合原因性引』は想像に難くない。
 ただ、こうした環境教育をめぐる様々な難問に少しでも解答を見いださねばと問々(もんもん)とするなかで、私が気付いたのは、これらの複合原因を排除する最も効果的な、かつ最も初歩的ながら最も重要な方法は、子供たちが手の平の上に動植物をはじめこの地球上のすべての生きとし生けるものの「命」を見つめる機会を私たちがつくっていくことではないかということだった。
 与党プロジェクト・チームの座長として、民主党が先に提案していた法案の趣旨も取り入れてまとめたのが、「環境の保全のための意欲の増進及ぴ環境教育の推進に関する法律案」だ。「国民はじめすべての主体が環境保全活動や環境教育を進める」ことを埋念とし、内閣が墓本方針を策定し、教員研修の充実など学校や職場、地域における活動を推進し、特に環境NPOやNGOのさらなる活躍を期待して、現場でのリーダーを育て、清用するための人材認定事業の登録制も新設した。
 法律としては決して十分な内容のものではない。しかし、この法律の成立を機に、私たちはあらためて百年前の文豪・夏自漱石の一文を想い起こしたい。
 「元来、人間というものは自己の力量に慢じて、みんな増長している。少し人間よりも強いものができてきて、いじめてやらなくては、この先どこまで増長するかわからない」。
 漱石は「吾輩は猫である」の猫をしてこう言わしめている。「いま人間をいじめてくれているのは環境問題だ。人類の未来のために感謝しなさい」といわんばかりだ。だから、まず「環境教育」だ。



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